2009年6月5日金曜日

足利事件と冤罪について

なかなか更新ができずに1ヶ月近くが経つ。
ブログを書けないのは時間もさることながら、心に余裕が無いからですね。

その中、衝撃的なニュースが心に響いた。

それは足利事件による冤罪についてだ。

1990年に、刑事の過酷な取調べと裁判所の甘い調査、そして当時の精度の低いDNA鑑定で、無期懲役に。
その後、再審にて現在の精度の高いDNA鑑定により無罪が確定的になり釈放されたというのが今回のニュース。


さらに新聞の記事を読むと、無罪を主張していたのにも関わらず、旧態のDNA鑑定により犯人と決めつけられ、実際に死刑になった人もいるようだ。

今後一般市民が裁判に参加するということで、今回検察が早期の釈放に踏み切り、「正義」をアピールしたようだが、我々の心には人を裁く責任というものが重くのしかかったことには間違いない。

現在日本では死刑が認められており、死刑廃止論争は飛び交っているが、人間を裁く上で死刑という選択肢はありえないと思う。
死刑は無である。
罪を改めることも、後悔することも、償うことも、なにもできない。
死刑とは誰のために行うのか。
被害者のために、被害者の家族のために、国民の感情のために、他の罪人への見せしめのために・・・行われるのだろうか。
人が人を殺すことは断じてしてはいけないはず。
なぜなら、実質手をかけなくても死刑を宣告した人たちは殺人犯となるのだから。
多くの人が同意し民意だとしても、殺人には変わりないのだから。


裁判官だって警察だって一般市民だって、人間だから先入観や感情で考え方は大きく揺れる。
メディア、国民感情、状況証拠、作為、常識など色々な外的要因に惑わされるのは仕方ない。
ガリレオが地動説の根拠を謳っても、カトリック教会は神が天地創造した天動説を頑なに唱え続け、市民はそれを当然と考えていたように、世の中はマジョリティに動かされる。
だからこそ、取り返しのつかない死刑は断じて許されない。

このやり場の無い強い憤りを、どうしても記しておきたかった。


4 件のコメント:

shino さんのコメント...

おひさしぶり。
勉強ガンバっておられるのかな。
落ち着いたら、また飲みましょう。
今回の飲みは、私も不参加なので・・・
この前、久しぶりに兄やんと連絡取りました。

今回の内容は・・・
難しいですね・・・

事件の被害者側の親族の思い等を
実際に知ったわけではないし。。。
死刑が無い場合、加害者は
果たしてどうするのか。
再犯が起きてしまったら・・・
とか。
色々と考えるものの、答えが
無いように思えます。

ただ、今回の足利事件に限らず
冤罪を受けた人の人生は
もう戻る事が出来ないのだと考えると
本当に悲しい気持ちにさせられて
しまいますね。。。

Kiyoshi Miyazaki さんのコメント...

勉強は粛々と頑張ってるよー。

確かに、人間が人間を裁く以上正解は無い気がする。
陪審員制度が始まる以上、人ごとにせず、そして裁判官などへ人任せにするのではなく、それぞれが考えることが必要だよね。

で兄やん元気だった?
仕事はどうなったんかね。
次回の会には来てもらいたいね。

shino さんのコメント...

偉いね。 試験、頑張ってくださいな。

兄やんとはメールだけしたんだけど
(電話をくれたんだけど、折り返して
ない・・・)
メールで仕事の事を何となく
聞きづらくて、聞いてないの。

今回の飲みは、兄やんには
連絡がいってなかったみたいだから
(いつも返信ないしね・・・)
また、みんなで集まれるときに
連絡してみようかな・・・って
思ってます。

Kiyoshi Miyazaki さんのコメント...

だね。
次回新年会?の時に連絡網まわします。