2011年2月12日土曜日

【BOOK REVIEW】葬式は、要らない

葬式は、要らない (著)島田裕巳



本書は葬式無用論を提唱しているのではなく、宗教学者である著者が、葬式の意味や時代の流れによる変化などを詳細に考察しており、日本人として非常に興味深く参考になる。

まず大前提として葬式は法律による義務ではなく、しなくても罰せられない。
死者が出た場合、医師に死亡診断書を書いてもらい、役所に行き死亡届を提出すると火葬許可証(埋葬許可証)を渡される。
そこまでの手続きは必要だが、それ以降どうするかは法的に決まっているわけではない。
葬式は遺族や関係者の心の整理と区切りをつけるために非常に重要な儀式であるが、逆にそれができれば無駄にお金を欠ける必要がないということである。

本来の仏教の教えは「無常」を説き、現世の栄耀栄華の追求の虚しさを思うところから出発しており、釈迦の教えからすれば、死後地獄に堕ちることを恐れたり、西方極楽浄土への往生を願って莫大な金を費やすことは、無駄で虚しい営みのはずであるのに、なぜ日本人の葬式は贅沢になったのか。
著者は、現世において豊かで幸福な生活を送った貴族たちが死後もその永続を願い、現世以上に派手で華やかな浄土の姿を夢想し、さらに夢想しただけでなく、浄土を目の前に出現させようと試みたことが根本的な原因だと指摘している。

そのため日本においての仏教は、歴史的にビジネス化されてきたことうかがえる。
そもそも出家したはずの僧侶が妻帯し普通に家庭をもっていることが、仏教の戒律を蔑ろにしており、葬式仏教に成り果てたことを表している。(なお神主は仏教とは異なり職業なので結婚しても問題無い。)

たとえば葬式費用の一つに戒名料があるが、日本において戒名は形骸化されている。
本来戒名とは、出家して僧侶になったときに世俗の世界の名前を捨て、出家者として新たに名前が与えられるものであり、亡くなったとしても一般の俗人が授かるものではない。

死者に戒名を与えるというのは日本にしかない制度で、商品化されているということが分かる。
家のプライドや見栄なのか、僧侶に数百万円払って戒名を頼む人もいるから驚きである。
ちなみに僧侶向けに戒名のつけかたマニュアルが刊行されており、戒名をつけるためのコンピューターソフトも販売されているようだ。

また、本書では宗教的な背景や歴史も興味深い。

もともと日本は、農業主体による村落共同体が信仰のあり方にも影響を与え「神仏習合」になったという。
仏教は葬式仏教として村人の葬式や法事・供養し、神道は氏神祭祀を営んで村を統合するなど役割分担されていたため、村には仏教寺院と氏神としての神社とが併設される体制が築かれていった。
しかし戦前までの仏教寺院は土地を小作に出しその収益を寺の維持運営に使うことができたが、戦後の農地改革により土地が奪われたことで寺の維持が難しくなったという。
観光寺院や祈祷寺院を除けば、収入は葬式や年忌法要の布施だけになり、檀家の数が多くないと収入も安定しない。
最近は法要も形骸化してきているため、寺院経営が成り立たなくなり無住の寺も増え、全国に7万以上の寺のうち約2万の寺が無住化しているといわれているそうだ。

だから運営していくには、本来の宗教的観念から離れたとしても、ビジネスモデルをつくらなければならないのかもしれない。
例えば新興宗教である創価学会は、都会に上京してくる人をターゲットにし、日本元来の祖先崇拝が弱い人々を囲い込んできた。
だから創価学会には家を継がず上京してきた次男や三男が多いという。

このように宗教の観念も儀式も大きな変化をしてきていることが分かる。
著者は、家を単位とした葬式や葬り方が今や実情にあっておらず、その変化の全体をながめた時に、葬式は簡略化に向かい葬式無用論に近づいてきているとまとめている。

現在、葬式も結婚式も家の儀式から個人の儀式に変わってきていることを実感する。
これもマスからソーシャルへの変化ということなのだろうか。


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